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『スペインとポルトガル、2国で世界の領土を分割した「トルデシリャス条約」』ー②
(貿易ともだち)さん、みんな(がんばるチャン!)してるかな? (7626)

『地球を2分割したスペイン・ポルトガルの世界進出』 
 15世紀末期~16世紀末期
~(前号)からの継続アップ~

(3)2つの勢力の激突地点にあった日本
 
➀ 東西に分かれたスペイン・ポルトガルの両国が世界制覇の波が、再び地球の裏側でぶつかり合うのは、必定であった。
 1529年、サラゴサ協定によって地球の裏側において2つの勢力のぶつかり合う分界線が、両国の間で定められた。
 この協定により分界線(ほぼ現在の東経135度)はちょうど日本を真っ二つに分断するものであった
 1543年にポルトガル人が種子島に上陸し、相次いで1549年にスペインのフランシスコ・ザビエル鹿児島に上陸したのも、日本がちょうど、2つの勢力の激突地点にあったことを裏付けるものであった。

➁ 当時の日本は戦国時代末期にあった。すなわち、国家の分裂状態の中で、日本も2つの植民地支配勢力の餌食となる可能性は充分にあった。
 しかし、これを防いだのは、織田信長の迅速な国家統一事業であった。当時ポルトガルから入った火縄銃を元にして、銃の改良と大量生産が行われるようになったことを背景に信長はこの新兵器を使って当時ヨーロッパにも見られなかった新戦法(3段構えの布陣戦法)を考案し、いち早い国家統一事業を成し遂げたのである。

 ③ 一方、1565年、スペインは大砲や小銃で武装した300人ばかりの騎馬軍隊を本国から派遣してフィリピンのルソン島を占領し、1571年にはマニラに首都を建設してマゼランのフィリピン諸島の発見を理由にフィリピンを領有した。

 これ以降、スペインは約330年にわたってフィリピンの植民地支配を続け、絹などの物産資源を大量に本国スペインに持ち帰り、原住民をことごとくカトリック信徒に改宗させた

(記事出典:「世界の歴史」 https://www.history.gr.jp/showa/310.html )

 blog up by Gewerbe  「貿易ともだち」 K・佐々木
『スペインとポルトガル、2国で世界の領土を分割した「トルデシリャス条約」』ー②_a0061688_09253900.jpg


# by Gewerbe | 2024-03-20 01:03 | Trackback | Comments(0)
『スペインとポルトガル、2国で世界の領土を分割した「トルデシリャス条約」』
(貿易ともだち)さん、みんな(がんばるチャン!)してるかな?(7625)

『スペインとポルトガル、2国で世界の領土を2分割した「トルデシリャス条約」』
 (15世紀~16世紀末期)
 ~地球を2分割したスペイン・ポルトガルの世界進出~

(1)アジアの物産獲得のために動き出したスペイン・ポルトガル
  スペイン・ポルトガルの世界進出の大きな契機は、1492年のコロンブスのアメリカ新大陸の発見と、1498年のバスコ・ダ・ガマのインド航路発見であった。
 大航海によるこれらの新航路発見は、いずれもスペイン・ポルトガルが、永年にわたって推進してきた国家的大事業の結実点であった。
  この事業の原動力になったものは、十字軍の遠征以来、ヨーロッパ人の間に高まった、アジアの物産に対する欲求であった。
 当時、ヨーロッパ人は、アラビア・イタリア承認との東方貿易を通じて、アジアの物産を手にすることができた。なかでも香辛料は非常に珍重され最も需要が高かった。
 「豊かなアジア」というイメージを作ったマルコ・ポーロ「東方見聞録」も、このようなヨーロッパ人の欲求をかき立てるものであった。
 ③ しかし、この欲求とは裏腹に、異教徒であるアラビア人の手になる東方貿易では、費用がかさみ、安全性にも乏しいという難点があった。
 ここに異教徒が支配する地中海東部を通らないで直接、アジア特にインドと交易をしようとする欲求が生まれた。
 これが、スペイン・ポルトガルの大航海の直接的動機であった。

(2)地球を2分割し支配しようとしたスペイン・ポルトガル
  この新航路発見を機にスペイン・ポルトガルは争って通商・植民地活動に乗り出し、両国の間で発見した土地・島の帰属を巡っての紛争が続出し始めた。
 1943年、新大陸の発見の翌年、早くもこれを調停しようとしたローマ教皇アレクサンダー6世が、教書を出し両者の進出領域を決めようとした。
 しかし、ポルトガルの不服により、翌年、スペイン・ポルトガルとの間で改めて会議がもたれ「トルデシリャス条約」が締結された。
 これによれば、ヴェルデ岬島の西方370レグワの地点を南北に縦断する子午線(ほぼ現在の西経45度線)を、両者の進出範囲を分かつ分界線とし、この分界線の西方全域をスペインの進出範囲、その東方全域をポルトガル進出範囲とした、後に1506年、この条約の分界点は教皇ユリウス2世によって承認され、まさにキリスト教権威のお墨付きとなった
 ➁ 両者の植民地獲得の勢いは、これにより一層、拍車がかけられた。スペインは、まずコロンブスが最初に上陸したサンサルバドル島、キューバ、ジャマイカなど西インド諸島(メキシコ湾東方のカリブ海域の群島)を、我が物顔で次々と支配し、1521年にはメキシコのアステク(アステカ)帝国を撃滅、1553年にはペルーのインカ帝国を撃滅していった。
 その間、スペイン人は原住民を大量虐殺し、生き残った者もことごとく奴隷として酷使した。また、スペイン本土よりの粗末な品物と原住民のとを交換して大量のを本国に持ち帰った。
 ③ 一方、ポルトガルは、アフリカ及びインド洋の沿岸地域を中心に、武力を背景として貿易を強行し、インド洋周辺にアラビア勢力を打破してインド洋の制海権を獲得していった。
 そしてアフリカの西海岸地域のギニアやアンゴラでは黒人奴隷貿易を行った。ポルトガル人は、スペイン人と同様に南米のブラジル地域の原住民を大量虐殺し、このため中南米の原住民人口は激減し、その労働力は底をついてしまった。そこでポルトガル人は、この深刻な労働力不足を補うべく、黒人奴隷貿易でアフリカから中南米に向けて多くの黒人を送り込んだのである。

 ~以下、(次号):「2つの勢力の激突地点にあった日本」に継続アップ~

(記事出典:「世界の歴史」 https://www.history.gr.jp/shouwa/310.html )

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『スペインとポルトガル、2国で世界の領土を分割した「トルデシリャス条約」』_a0061688_07503328.jpg




# by Gewerbe | 2024-03-20 01:02 | Trackback | Comments(0)
『マーケティング:「歴史を紐解く」』ー③
(貿易ともだち)さん、みんな(がんばるチャン!)してるかな? (7624)

『マーケティング:「歴史を紐解く」』ー③
 実は旧日本海軍では「香水』を愛用するものが多かった...その以外なワケ
 ~(前号)からの継続アップ~

 のちに海軍有数の「撃墜王」となる杉田庄一はまだ18歳の少年だったが、その闘志は比類なく、この出来事の約1か月前には「難攻不落」といわれた米陸軍の大型爆撃機ボーイングBー17を空中衝突で撃墜したことがある(のち上飛曹。昭和20年4月15日戦死)、戦死後少尉。その時杉田の四番機が、先に長田利平と一緒に香水を買った田村恒春だった)。
 玉井も小福田も、毎日、命をすり減らしながら戦う最前線で、部下の手綱を引き締めるべきところと緩めるべきところのツボを押さえていたということなのだろう。玉井はのちに長田利平も属する特攻部隊の司令となり、歴史に悪い意味で名を刻んでしまうが、この頃はまだ、部下思いの人間味のある上官として慕われていた。
 もとより、髪型は操縦技量には全く関係ない。小福田は「髪型がどうだろうと、いざというときに働いてくれればいい」という主義だった

 当時の海軍では、少佐の飛行隊長ともなれば大きな作戦のときに総指揮官として出撃することはあっても、小規模な作戦や、ふだん空襲があったときの邀撃作戦などでは飛ばないのがふつうである。だが小福田は、どんなときにも率先して飛んだ
 この頃の小福田に、こんなエピソードがある。
 ある日、小福田がブイン基地指揮所で他の士官とトランプ(海軍では麻雀は禁止されていたが、ポーカー、ブリッジなどは推奨されていた)に興じていると、見張り員が「敵襲!」と叫んだ。小福田は、近くでたまたまエンジンのかかっていた零銭に飛び乗ると颯爽と離陸していった。整備員が何か叫んだようだが、耳に入らなかった。敵機は初めて見るロッキードP-38が2機。双頭の姿が異様で、まるで凧が飛んでいるかのように見える。間合いを詰めて敵機を照準器に捉え、左手のスロットルレバーについている機銃の発射把柄をぐっと握ったが弾丸が出ない。いったんかわして2度目の発射把柄を握ったがこれも駄目。そのうち敵機は4機に増え、不利とみた小福田は雲の中に避退した。着陸して整備員を読んで質すと、この飛行機はエンジンの積み替えを済ませて試運転中で、機銃はまだ整備していなかったのこと。
 「だから発進されるときに申し上げたのですが...」との答えに、小福田は怒るに怒れなかったという。

 小福田は、ラバウル在任中(昭和17年8月31日~18年3月6日)の約半年間の間に、直属の部下90名のうち40名を失った。内地に帰還し、横須賀海軍航空隊教官、厚木海軍航空隊飛行隊長を経て、空義技廠飛行実験部員(テストパイロット)となった小福田は、南方での体験をありのままに纏め、『戦訓による戦闘機用法の研究』と題して上層部に提出。
 その中には、〈二号ゼロ戦(三二型)は特に高速時操作軽快なる為空戦上極めて有利なり〉の一文とともに、〈戦闘機といえども、将来機に対しては防御を考慮するを要す〉との切実な言葉があった。零銭の主翼の燃料タンクに自動消火装置が装備されたのは昭和19年(1944)年半ばのこと。防弾ガラスや防弾鋼板も新型機に順次、装備されるようになる、だがその頃にはすでに戦いの勝敗の決し、敗戦は時間の問題となっていた。

 小福田は戦後、航空自衛隊に入り空将まで昇進。退官後は白洲次郎の住居『武相荘』にほど近い町田氏に暮らし、平成7(1995)年7月29日に亡くなった。享年86歳。同じ町内には元ゼロ戦搭乗員が何人か住んでいたが、小福田は思うところがあったのか、誘われても戦友会には顔を出さなかったという。

(記事出典:神立尚紀 氏(ライター)/ 現代ビジネス 2024/03/05)

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# by Gewerbe | 2024-03-19 00:02 | Trackback | Comments(0)