(貿易ともだち)さん、みんな(がんばるチャン!)してるかな? (2361)
『 ”新日鉄の支援なしに今日のポスコはない” 朴泰俊名誉会長ー② 』
ーー資金調達はどうしたのか。
「米国からの借款のために努力した。しかし駄目だった。韓国の総合製鉄所は成功の
可能性が無い。ということだった。
それで考え出したのが、
日本との国交正常化で受けた対日請求資金源だ。朴大統領
も私のアイデアを積極的に指示してくれた。3億ドルのうち、当時残っていた金額は7370
万ドルだった。さらに
日本輸出入銀行から5000万ドルを借り、本格的な工事を始めるこ
とができた」
ーー”韓国の総合製鉄所事業は経済的な妥当性がない”という報告書を出した世界
銀行(IBRD)研究員には会ったか。
「1986年にロンドンに出張したとき、その報告書を書いた英国人ジャッぺ博士に会った。
私は”浦項製鉄のおかげで韓国に造船所も自動車工場も誕生し、うまくいっている”と話し
た。そして1969年の報告書についてどう考えているのかと尋ねた。ジャッぺ博士はこう言
った。(今でも報告書を書くのなら結論は同じはずだと。そして当時、自分が把握していなか
ったことが一つあると。それは朴泰俊という変数だ。朴泰俊という人物を知らなかったため、
結果的にあの報告書を書いたということだった」
ーー浦項製鉄がどんどん成長しながら、日本鉄鋼業界では「韓国にあまりにも多くの
技術と情報を支援しすぎたのでは」という批判もでてきたというが。
「1973年に103万トンの高炉を予想より短い期間で完工するのをみて、日本ではそういう
声が出始めた。当時、稲山会長(新日鉄)はこう話していたと聞いた。
(たくさんのことを教えたことが問題なのではなく、学ぶ人の意志と情熱が強かったという
ことだ。われわれのミスではなく、向こうがよくやったのだ)と」
ーー製鉄所を建設しながら、”譲れない原則”があったというが。
「3つは確実に守った。まず工程を短くし、建設単価はできるだけ低くする。2つ目は、欠陥
工事は絶対に許さない。3つ目は、技術者の養成だった。厳しい環境の中でもこの3つだけ
は絶対に譲れない条件だった」
ーー後輩経営者に一言。
「1993年に浦項製鉄所を離れる際、”一日も早く鉱山を買え”と話した。実際、
鉄鋼事業は
良い鉄鉱石と無煙炭をどれだけ安く確保できるかがカギだ。しかし後輩の友達は私の話を
きちんと聞いていなかった」
(記事:中央日報 2008/03/26)
by Gewerbe 「貿易ともだち」 K・佐々木