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2024年 03月 19日
(貿易ともだち)さん、みんな(がんばるチャン!)してるかな? (7624)
『マーケティング:「歴史を紐解く」』ー③ 実は旧日本海軍では「香水』を愛用するものが多かった...その以外なワケ ~(前号)からの継続アップ~ のちに海軍有数の「撃墜王」となる杉田庄一はまだ18歳の少年だったが、その闘志は比類なく、この出来事の約1か月前には「難攻不落」といわれた米陸軍の大型爆撃機ボーイングBー17を空中衝突で撃墜したことがある(のち上飛曹。昭和20年4月15日戦死)、戦死後少尉。その時杉田の四番機が、先に長田利平と一緒に香水を買った田村恒春だった)。 玉井も小福田も、毎日、命をすり減らしながら戦う最前線で、部下の手綱を引き締めるべきところと緩めるべきところのツボを押さえていたということなのだろう。玉井はのちに長田利平も属する特攻部隊の司令となり、歴史に悪い意味で名を刻んでしまうが、この頃はまだ、部下思いの人間味のある上官として慕われていた。 もとより、髪型は操縦技量には全く関係ない。小福田は「髪型がどうだろうと、いざというときに働いてくれればいい」という主義だった。 当時の海軍では、少佐の飛行隊長ともなれば大きな作戦のときに総指揮官として出撃することはあっても、小規模な作戦や、ふだん空襲があったときの邀撃作戦などでは飛ばないのがふつうである。だが小福田は、どんなときにも率先して飛んだ。 この頃の小福田に、こんなエピソードがある。 ある日、小福田がブイン基地指揮所で他の士官とトランプ(海軍では麻雀は禁止されていたが、ポーカー、ブリッジなどは推奨されていた)に興じていると、見張り員が「敵襲!」と叫んだ。小福田は、近くでたまたまエンジンのかかっていた零銭に飛び乗ると颯爽と離陸していった。整備員が何か叫んだようだが、耳に入らなかった。敵機は初めて見るロッキードP-38が2機。双頭の姿が異様で、まるで凧が飛んでいるかのように見える。間合いを詰めて敵機を照準器に捉え、左手のスロットルレバーについている機銃の発射把柄をぐっと握ったが弾丸が出ない。いったんかわして2度目の発射把柄を握ったがこれも駄目。そのうち敵機は4機に増え、不利とみた小福田は雲の中に避退した。着陸して整備員を読んで質すと、この飛行機はエンジンの積み替えを済ませて試運転中で、機銃はまだ整備していなかったのこと。 「だから発進されるときに申し上げたのですが...」との答えに、小福田は怒るに怒れなかったという。 小福田は、ラバウル在任中(昭和17年8月31日~18年3月6日)の約半年間の間に、直属の部下90名のうち40名を失った。内地に帰還し、横須賀海軍航空隊教官、厚木海軍航空隊飛行隊長を経て、空義技廠飛行実験部員(テストパイロット)となった小福田は、南方での体験をありのままに纏め、『戦訓による戦闘機用法の研究』と題して上層部に提出。 その中には、〈二号ゼロ戦(三二型)は特に高速時操作軽快なる為空戦上極めて有利なり〉の一文とともに、〈戦闘機といえども、将来機に対しては防御を考慮するを要す〉との切実な言葉があった。零銭の主翼の燃料タンクに自動消火装置が装備されたのは昭和19年(1944)年半ばのこと。防弾ガラスや防弾鋼板も新型機に順次、装備されるようになる、だがその頃にはすでに戦いの勝敗の決し、敗戦は時間の問題となっていた。 小福田は戦後、航空自衛隊に入り空将まで昇進。退官後は白洲次郎の住居『武相荘』にほど近い町田氏に暮らし、平成7(1995)年7月29日に亡くなった。享年86歳。同じ町内には元ゼロ戦搭乗員が何人か住んでいたが、小福田は思うところがあったのか、誘われても戦友会には顔を出さなかったという。 (記事出典:神立尚紀 氏(ライター)/ 現代ビジネス 2024/03/05) #
by Gewerbe
| 2024-03-19 00:02
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2024年 03月 18日
(貿易ともだち)さん、みんな(がんばるチャン!)してるかな? (7623)
『マーケティング:「歴史を紐解く」』ー② 実は旧日本海軍では「香水』を愛用するものが多かった...その以外なワケ ~(前号)からの継続アップ~ 昭和19年の戦闘機搭乗員が店で買えたということは、大戦末期にも香水は生産されていたのだろうか。私が出会った限りでも、出撃のとき飛行帽や飛行服に香水を振りかけていたという人は何人もいたから、よく言えば、日本の歴史の中で連綿と受け継がれた武士としての心構えが、昭和になっても、残っていたものかもしれない(あるいは、実も蓋もない言い方をすれば、飛行服は力士のまわしと同様、貸与中は洗濯しないので、汗臭さを消す用途であったのかもしれない)。 ちなみに長田利平は、香水を買いに行ったのが縁で、その日から田村と2人、ちゃっかり紅屋二階の十二畳間に下宿するようになり、外出するたびにここで寝泊まりした。長田はその後フィリピンに出撃し、昭和20年2月、台湾に後退したところで特攻隊員となるが、4度の爆装出撃で敵艦に遭遇せず奇跡的に生還。神奈川県警の刑事となり、『紅屋』との縁は長く続いたという。 身だしなみ、といえば、太平洋戦争もたけなわの昭和18年(1943)年2月頃にはこんなエピソードもある。少佐になった小福田は、ニューブリテン島ラバウル(現パプアニューギニア)に本拠を置く零戦隊、第ニ〇四海軍航空隊の飛行隊長を務めていた。二〇四空の指令は杉田丑衛(うしえ)大佐、副長兼飛行長は後に特攻部隊である第二〇一、二〇五海軍航空隊の司令を勤める玉井浅一中佐である。 海軍では、士官の長髪はきちんと整えている限り自由だが、下士官兵の長髪は原則として認められていなかった。だが、飛行搭乗員は、不時着時の衝撃をすこしでも緩和するという名目で、よほど分からず屋の上官が部隊に居ない限り、下士官兵であっても髪を伸ばすことはある程度黙認されていて、七三に分けている者も少なくなかった。 とはいえ、規則は規則である。二〇四空でも下士官兵は長髪が禁止されていて、大ぴらに伸ばすことができない。しかし、飛行帽を被っていると外からは見えないからと、二〇四空の搭乗員の多くは髪を伸ばしていた。大原飛長(のち飛曹長。1921~2018)の回想によると、多くの搭乗員がやっていたのは、散髪の時に髪の毛を直径1センチぐらい残して刈り、残ったところだけ長く伸ばすという弁髪のような髪型で、この髪を三つ編みしている者もいた。これは芥川龍之介の『蜘蛛の糸』のように、いざ地獄に落ちそうになったとき、あわよくばこの世に引き上げてもらおうという縁起担ぎだが、不精を決め込んで全体を長く伸ばしている者もいた。 ある日、玉井中佐が数十名の下士官兵搭乗員を整列させて、指揮台の上から突然、「総員帽子を取れ」と号令した。抜き打ちの頭髪チェックである。髪を伸ばしているのがバレれば怒られる、そう思いながら、搭乗員たちは恐る恐る帽子を取った。弁髪のような頭が並んだ光景はさぞ珍妙に映っただろう。 玉井中佐は搭乗員の頭を見渡すと苦笑いし、なかでも髪をボサボサに伸ばしている杉田飛長に、「あとで俺のところに来い」とだけ命じて、解散させた。杉田が叱られるつもりで、神妙な面持ちで福長室に行ってみると、玉井中佐は、「おい杉田、伸ばすんなら手入れぐらいしておけ」と言い、ポマードを一瓶、渡してくれたという。 「整列のときには小福田隊長も玉井副長の横に立っておられたから当然、わかっておられたはずですが、副長室から出てきた杉田の顔を見てニヤッとされただけでした」と大原は言う。 ~以下、(次号)に継続アップ~ (記事出典:神立尚紀 氏(ライター) / 現代ビジネス 2024/03/05) #
by Gewerbe
| 2024-03-18 23:59
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2024年 03月 18日
(貿易ともだち)さん、みんな(がんばるチャン!)してるかな? (7622)
『マーケティング:「歴史を紐解く」』 ~実は旧日本海軍では「香水』を愛用する者が多かった...その以外なワケ~ ◆小福田 祖が飛行練習生たちへの訓示で語った言葉 「搭乗兵はいつ死ぬかわからぬ。常に身だしなみを整えよ。飛行帽には香水をたっぷりと振りかけておけ。死んだ時、血生臭い匂いや汗臭い臭いを出すのは恥だ。航空加奉はそのためにあるんだ。搭乗員は宵越しの金など持つな!」 これは昭和12年(1937)年6月、小福田 祖(こふくだ みつぐ)中尉(のち中佐、1909~1995)が、練習航空隊である霞が関海軍航空隊の教官として着任早々、飛行練習性たちへの訓示で語った言葉である。 この場で訓示を聞いていた練習生の中に、角田和夫一等航空兵(のち中尉、1918~ 2013年)がいる。角田によると、これを聞いた練習生たちは、一斉に「わぁっ」と喜んだと言う。というのは、当時は贅沢を慎み、貯金をすることが国を挙げて奨励されていて、皆、口には出さなくても息のつまるような思いをしていたからである。 小福田の言葉は、昔の武将、例えば源平合戦の「一ノ谷の戦い」で、熊谷直実に討たれた平敦盛が戦いに臨んで薄化粧をしていたとか、大阪夏の陣で大阪方の武将・木村重成が、二度と帰らぬ戦いに出陣する際に兜に香を焚きしめた故事などを思い起こさせ、昭和のサムライであろうと張り切る練習生たちの心の琴線に触れたのだ。 実際、この前年(昭和11年)の海軍航空隊の事故による死者は100名に達していて、「搭乗員はいつ死ぬかわからぬ」という言葉には差し迫った実感があった。 「軍人」と「香水」、一見不似合いにも思えるが、旧日本海軍では、士官から下士官兵に至るまで、香水を愛用する者が多かった。 大戦末期の昭和19(1944)年、横須賀海軍航空隊に赴任した当時18歳の永田敏利平飛長(飛行兵長。のち一飛曹。1925~2019)は、 「上陸(外出)のとき、同期生の田村恒春君と一緒に、最初に行ったのが追兵駅前にあった老舗化粧品店の『椿屋』でした。ここで買った資生堂の香水を、上陸するときは必ず服にひと吹きして出かけたものです。搭乗員はわれわれ下っ端でも一日おきに午後6時から翌朝6時までの上陸が認められていました」と、回想している。 飛行兵長といえば、実戦部隊に配属された戦闘機乗りとしては最下級に近い「兵」の階級で、ここでいう「軍服」は水兵と同じセーラー服である。それでも最初の上陸で香水を買いに行くほど、軍人にとって香水は身近なものだった。 資生堂企業資料館のホームページのよると、資生堂が日本発に香水「花椿」を発売していたのが大正6(1917)年のこと。大正7(1918)年には「梅」「藤」「月見草」など和風の花をモチーフにした香水が作られ、大正9(1920)年頃、「菊」が発売される。昭和になると、昭和6(1931)年に「銀座」、昭和9(1934)年に「セレナーデ」、1936(昭和11)に白薔薇をイメージした「ホワイトローズ」が発売されたという。 長田が買った香水の銘柄は本人にも記憶がなく定かでないが、好みで香りを選べるだけの種類はあったようだ。 ~以下、(次号)に継続アップ~ (記事出典:神立尚紀 氏(作家) / 現代ビジネス 2024/03/05) #
by Gewerbe
| 2024-03-18 08:44
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